私はまた孫の言葉に泣かされてしまった。今年に入って4度目だ。
4度目のその今回の言葉とは何かを話す前に、
その言葉に関係する「時間」について触れておこう。
世界中のどこのどんな人でも唯一平等に与えられているのが「時間」である。
その人の状況や状態の違いはあれど、文句一つの言いようがない程平等なものである。
さらにそれは有限であり、期限は人夫々だが誰もがその今を生きている。
それを「搾取されていく」そう聞くと、誰もが自分のもっている
自由の時間・権利の時間・平和な時間を何者かにコントロールされる
例えば「労働によって自分の人生これで良いのか・・・」
「あの人やあの人達との時間は何だったのだろうか・・・」等と思う人は多いのではないだろうか。
我々は自分の時間と労働力を捧げて、生活の為にその対価である賃金を獲得して生活している。
そして生活を共にし人生を共にする共同体を形成している。
更なる生産性を求める会社の利潤追求に貢献し、
ただひたすらその資産家たちから時間を搾取され続けている。
当たり前の様に時間を搾取する構図が形成されている。
現代では資産構築の仕方は様々な種類や情報が飛び交い、雇用されての労働以外にも
生活していける手段は豊富になってきたとはいえ、誰もが何かしらで時間を消費している。
自分にとって必要な時間を奪われ、他人にとって必要な都合の良い時間を生きねばならない時
それは当たり前ではなく、思いやりが必ず必要なのだ。
対価があるない、見合う見合わないに限らず人の有限な時間を搾取する以上
感謝が絶対的に必要なのだ。
実は上記の御託が一気に浮かび上がった今回の孫の言葉を紹介する。
孫が学校が終わり帰る時、娘が急な仕事で迎えに行けないから、
近くの駅まで帰ってきてもらい、駅から家まで私が送る段取りになった。
習い事のピアノの先生が家にやってくる時間が迫っていた。
話していた駅の待ち合わせ時間より遅くなった。
「どうした?大丈夫か?」携帯電話で孫とやりとりしていると
小学校1年生の下孫が言ったのだ。
ごめんなさい。お爺ちゃんの大切な時間を奪ってる。
「うおぉ!!」衝撃を受けた。 小学校1年生の女の子の発言か。
「そんなことないよ。お爺ちゃんは2人が来る事さえ分かっていれば
いつまででも待てるよ。気を付けてゆっくり帰ってきたらいいよ。」
電話を切った後駅の構内で一人立ちすくみながら涙を流した。
爺さんが1人構内で涙目で突っ立っている・・・気持ち悪かったやろなぁ。
今回の孫を待っている時間は、自分の時間を搾取されてるなんて微塵も思っていないが、
日常の仕事や生活の中で人の時間をコントロール、搾取する時はこれ位まではいかなくとも
申し訳ない気持ち、感謝の気持ちが本当に重要だ。
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