私は5000動いた、学んだ、尽くした、戦った。
少なく見積もっても20のリターンがあっても良いだろう・・・
そう思っていた結果リターンは
2
なんて事は人生で何度も何度もあるものである。
むしろ・・・・マイナスになっている人もいる?
今そういう現場に直面し絶望している人はいないだろうか。
筆者も昔はハイリスクローリターンを繰り返し、
リスクに対する免疫を鍛え続けてきた人間とはいえ、
未だにダメージを受ける瞬間がある。(要はアホやないか・・・)
20年前の時より少しは改良させたチラシなのに
5000部チラシまいて2件の依頼を受けた・・・これをどう取るか。
見返りを求めない?
見返りを求めずに無償の愛を貫く
最高の精神だ。是非見習い続けたい。費用対効果考えたくもない?
当初そのつもりで動いていても見返りを求めざるを得ない瞬間に遭遇する。
それが生活にも関わってくると意識した時だ。
出発点は自分の「やりたい」という内向的動機付けとして始まった事でも
自らの生活に何かしら関係性影響性を感じた瞬間に
見返りを意識しだす。振り返って行ってきた事等のこれまでの事も意識しだす。
「100万円かかってやって、結果こんなんやったら最初からやらん方が良かった!」(こんなんにもよるが・・・)
「あれ?企業の方針に則り自己研鑽の為に私は、400万円と800時間家庭のお金と時間を犠牲にして
学んできたのに、先輩面してる人は1円も1分も犠牲にしていない上に高く評価されてる。」
「あれ?私はA君にあれだけ尽くしてるのに、B子はA君に冷たくしてるのに何でA君は私ではなく
B子の事ばかり見てるの?どうして私を見てくれないの!?」
「あれ?勉強の時間努力の時間は俺の方が多いはずなのに、何で何もしていないあいつの方が
成績優秀でスポーツでも上なんだ。」
生活していく上で経済的精神的に違和感を感じる瞬間ではないだろうか。
方向性は正しいのか
人間の相性や好き嫌い・才能やセンスがあるから仕方がないと片づけてしまえば、成長がなくなってしまう。
「自分の行動が相手に刺さる内容なのかどうなのかを考えなくてはならない」とか
「自分がどうしたいではなく、相手が望んでいる事をしよう。」
等という言葉は嫌という程聞いてきたのではないだろうか。
だが最初は自分がどうしたいかが発信源なはずだ。そこに推測も混ぜ込んだはずだ。
自分にリターンがなくても、したくなくても相手が喜ぶイメージ。成功イメージ。
突き進んで突き進んだ結果、表出されたのが想定内外であってもそれが原因で、
自らの生活を意識せざるを得ない状況になって初めて、過ちや失敗に気付く事もある。
さらに結果は出ても尚、過ちではないと確信がもてるなら動きの方向性を変えて
チャレンジしても良いかもしれない。法に触れなければの話だが・・・・
ただその時の自分は確実に見返りを求めている事を受け入れた上で挑め。
挑み続ける為に
現実に直面し幻滅した後、静かに殻に閉じこもり無人島に逃げたくなる。
家庭を持つとチャレンジが出来ず、安全や安定の為に我慢を選択する。
それでいい。それでいい。それでいい?それでいいのか?
では挑むにはどうしたら良いのだろうか・・・。
枯渇する恐れの要素に対して代替のきく確かなものが自分の中にある状態でいる事
これが無意識にもある依存への執着を小さくさせてくれるものである。
失恋に備える為にキープをつくれ・二号さんや愛人は必要と言っているのではない。
赤点に備える為に別科目で高得点を目指す。⇦これはこれで良い進路的な戦略。
廃業に備える為にやりたくない仕事も掛け持ちで行う。
どちらも最初からマイナスに対する備えである。全力で1番だけに挑み敗北しても
再度その時の自分の中の1番に挑む時の為の、確実なものが自分の中にあるかどうかである。
人間磨き・起業した事業関係の就業や副業によって入ってくるお金・赤点だが好きな科目も勉強等々・・・
自分の中での見返りを求められるだけの、これ以上ない努力が自己肯定を生み
またその結果の見返りが予想より低くても、納得できるものとなり
またまた挑み続けるか、スッキリ別の方向に進むかが選べるようになるのである。
介護職に見返りを
介護職
当初、国が職業としてカスやクズ以下と評価していた職業
(働かず生活保護で遊んでるだけの人より低い賃金である、生活が困窮する事が丸分かりの収入の職種)
だが現在でも利用者を冷笑し卑下する介護職がいるのも事実な為に、
そんな国の視線も分からなくもないが、せめて職業として存在しているものだと認知して欲しいから
私も「カスの集まり」「クズ集団」と口走ってしまう。
見返りを求めず無償の愛を貫く人もいる。
方向性はずれていたとしても、現代社会をもっとよりよくしたいと努力している人もいる。
真剣に対象者と向き合い人生をより良くしようと思っている人もいる。
人間としても見習うべき介護職も沢山いる中で、その様な介護職の人達が
本当に底辺の介護職達と同じ評価である現実にあきれ返るばかりだ。
確かに介護は生活の営みの一部であり、見返りなどもとめるのは間違えと取るのは分かる。
見返りはいい。
国も介護職個人も今の方向性とその歩みを挑み続ける為に、もう一度「介護福祉士」について
見つめなおさないといけないんじゃないか?
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